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 ●石川県支部訪問記

掲載日:2008/6/04

石川県支部訪問記

 平成19年9月、平成20年3月の二度にわたり校友会事務局の猪口は石川県を訪れる幸運を得ました。その時、訪れた幾つかの名所と美味しいものをご案内いたします。
金沢といえば金沢城跡、兼六園、香林坊など市内に名所が点在しています。しかし、今回はちょっと違った視点で紹介してみようと思っております。

 9月JR金沢駅東口を降り立ち、はじめに圧倒されたのが、大きなドーム状のガラス天井と、鼓のような形をした門です。これは平成17年に完成したもので、雨や雪の多い金沢を訪れた人々を優しく傘を差しのべる地元の金沢の人の気持ちを表したものだそうです。思わず天井を見上げて・・・・・…スゴイ (~・);

 金沢には犀川と浅野川が流れ、街を大きく三つに分けています。そして、卯辰山、小立野台、野田山という三つの丘があります。

 犀川は作家 室生犀星が愛した川としても知られています。
 犀星は「ふるさとは遠きにありて思うもの そして悲しくうたうもの・・」また「美しき川は流れたり そのほとりに我はすみぬ 春は春、なつはなつの花つける堤に坐りて・・」とうたっています。
 犀川上流の水は江戸時代初期に金沢城に引かれ、辰巳用水と呼ばれ、現在も流れています。
 そのほか金沢市内の用水としてあちこちから取水され、水資源として重要な役割を果たしているそうです。

 この犀川のほとりにある日本料理の「杉の井」で昼食をとりました。打ち水をしてある玄関を入ると静かな佇まい。お店の方に案内されて奥の座敷に通されました。
部屋からは簾越しに庭の木々が見えます。アゲハチョウの姿も見えました。
 金沢名物の治部煮の入った弁当はとても美味でした。食後に出された葛切りはほんのり甘い黒密と相俟って清々しい後味でした。

 翌日、訪れたのは浅野川です。この川は犀川が男川と呼ばれたのに対し、女川と言われたそうです。
 この川沿いには主計町(かずえまち)、ひがし茶屋町などがあり、独特の風情を醸し出していました。 下の2つの写真は主計町(かずえまち)です。

 左の写真はひがし茶屋の町並みです。

 現代の喧噪を忘れ、時代を遡った気分になる町並みでした。
 ひがし茶屋町にある「志摩」という茶屋の入口部分と内部の一部です。
 この後、ブラブラと卯辰山公園付近を散策し、観音院にお参りをしました。ここで目に付いたのが左右の柱に彫ってある立派な貘でした。

 観音院の少し先の丘の上から、向かいに金沢城跡がよく見えました。

 観音院から下って再び浅野川に出ました。歩行者専用の橋がありました。その橋は「梅ノ橋」と名付けられていました。木陰で涼んでいると、どこからともなく涼やかな「風鈴の音」が聞こえてきました。その音色に余韻を感じながら川沿いを歩いていると中年の女性の方が「お暑いですね」と声をかけてくれました。川にはアオサギの姿も見られました。




「秋まぢか 清らにきこゆ 鈴の音に なごむ心の浅野川」(眞美)


 さらに歩いて金沢の駅に向かう途中、金沢名物鮴(ゴリ)の佃煮を売る店を見つけ、思わず買い求めました。 後日談・…日本酒と相性がぴったりでした。
 金沢市内を散策していると何故か気持ちが落ち着きました。古都の風情を感じつつ金沢を後にしました。

 平成20年3月、未だ少し雪の残る能登で、校友会東海北陸地区支部長会議が開かれました。私は能登に行くのは初めてだったので、とても楽しみでした。石川県支部長の山岸さんに能登の名所をご案内いただきました。
 はじめに訪れたのは総持寺祖院でした。この総持寺はかつて曹洞宗本山として、越前永平寺とならんで全国の末寺を統括していました。しかし、明治31年に大火にあい、その後、鶴見へ移したとのことです。現在は、祖院として消失した伽藍も再建されているとのことでした。しかし、2007年3月25日の能登半島沖地震で大きな被害を受けてしまったそうです。私たちが訪れたときは随分と復興が進んでいましたが、建物のあちこちに大きな亀裂が残っているのが確認できました。




山門

 これは仏殿内「相見の間」の襖に書かれている書で山岡鉄舟の作だそうです。
右から「鉄樹(てつじゅ)」「抽枝(えだをぬきんじ)」「石樹(せきじゅ)」「開花(はなひらく)」と記してあります。

これは宿泊した民宿「さんなみ」入り口付近の写真です。


入り口付近に咲く
フキノトウ
 ここは民宿といっても半端なところではありませんでした。一日の宿泊は3組までしかとらないそうです。普通ならなかなか予約はできないのです、山岸さんが苦心の末、予約を取ってくれました。ここの宿のメインは食事で、通り一遍の食事は出さないとか。健康は心の癒しと安全な食べ物との考えから「食治」という提案をされているとのことでした。夕食、朝食をいただいてとても納得しました。


「いしりの貝焼き」・・「いしり」を薄めてホタテの貝殻を鍋代わりにして
イカ、野菜などを入れて煮ながら食べる。
「いしり」・・イカを塩で漬け込んで数年ねかしたものを搾ったもの。魚醤油


 さよりの刺身、たらの身のたらこまぶし・・新鮮で美味しかった

 ご主人は、食材は地元で採れたもの、天然のもの、自宅で栽培したもの(無農薬有機栽培)、自宅で漬けたもの、自宅で調理したものを提供するという方針を持っているとのことでした。大変心のこもったもてなしの料理でした。とにかく感激の一言です。ところで、この民宿、実は食をテーマにした漫画「美味しんぼ」でも多くのページを割いて紹介されています。また、さまざまな著名人、各種の本にも取り上げられていました。
 インスタント食品、冷凍食品、輸入食品等々、今の私たちは食に対して安易な考えでいるのかなと改めて考えさせられました。私も含めて、本来、食は「いのち」をいただくものであるということさえ、解らなくなっているようです。
 ちなみにここのご主人はアマチュア無線のコールサインをお持ちでした。


民宿から富山湾を望む  庭に「能登は元気です」と記されていました。
能登半島沖地震の復興を祈って表したものです。

 翌朝、参加者全員、心からのおもてなしを感謝しつつ、民宿を後にしました。
その足で、私たちは輪島の朝市へ向かいました。

いきのいい掛け声でお客さんを呼び込む売り子の人達

 次に能登半島の日本海側の曽々木海岸を案内していただきました。内湾の富山湾と違い波も高く荒々しい感じでした。



曽々木海岸窓の岩


垂水の滝

ちょっと分かりにくいのですが、手前の白い泡が「波の花」です。たぶん…


「波の花」は冬の能登の風物詩として知られ、厳寒の荒波にもまれた海中に浮遊する植物性プランクトンの粘液が石鹸状の白い泡を作って生成すると言われています。

 能登半島の珠洲は揚げ浜式塩田で有名です。揚げ浜式塩田は汲み上げた海水を塩田に撒いて濃い塩水を作り、大きな釜で煮詰めて塩を作る製法です。海岸沿いの国道を走ると塩を作っている小屋が見えます。今回、案内していただいたのは新海塩産業さんでした。新海塩産業さんは従来行われている天日乾しではなく、簾(すだれ)に海水をかけ流し、塩分濃度を高めていくやり方をしています。この方法ですと天候にあまり大きく左右されないで塩を生産できることができるようです。私たちがお邪魔したとき、丁度、濃縮した海水を煮立てた後で、塩を取り出しているところでした。



海水をかけ流しして濃縮している


出来立ての塩

社長の小谷内さん(左)


  ここで作った塩は塩辛さの中にまろやかがあります。私はここで購入したきれいな桜色した「さくら塩」今も料理で使っています。

 最後に能登の名所で最も有名といわれる見附島(みつけしま)に案内していただきました。この見附島は珠洲市にある無人島で、別名軍艦島とも言われています。渚から200m程沖合いにあります。間近まで軽石の人工踏石が一列に入れてあり、近くにまで行くことができます。しかし、この島は珪藻土(珪藻:藻の仲間で微細なガラスの殻を持った植物)でできており、たいへんもろく、年々波浪風雨に侵食されて島全体が小さくなっているのです。近年では台風、地震等の影響を受けているとのことです。島が小さくなるのは残念ですが、自然の成り行きですので仕方のないことかもしれません。私たちが訪れたとき、若い男性たちが踏石をわたって島まで行って帰ってきたところでした。

 海岸に「えんむすびーち」と書かれたゲートと鐘がありました。何故?とおもい調べてみました。この見附島から恋路海岸(こいじかいがん)までの3.5kmの海岸線を「えんむすビーチ」と称しているのだそうです。恋路海岸は、能登半島七尾北湾に位置する石川県鳳珠郡能登町の1kmの海岸を指します。海岸名の由来は、この付近であった悲恋伝説によるものだそうです。名前から、カップルで訪れる人が多く、二人で鳴らすと恋が成就すると言われています。
なるほどね、もっと早く知っていれば・・… オット危ない。

 石川県支部長山岸さん、お忙しい中、色々ご案内いただきありがとうございました。
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